こんにちは。はいしーです。
プロフィール
はいしー。2000年生まれ。きょうだいが難病(発達障害・聴覚障害など)。
親との関係に悩み、アダルトチルドレンの面もあり。
大学生から実家を出て一人暮らし。
たくさん悩んできた自分を受け入れて、
人生を楽しむ方法を模索中!
今回は学生時代(大学)の帰省の思い出と、
実家に対する考え方の変化を
学年ごとに順を追ってご紹介します。
Contents
1年生 楽しさの中でも、自分を演じていた
大学1年生のときはちょうどコロナ渦だったことと、
サークル活動で忙しかったこともあり、
なかなか帰省できない日々を過ごしていました。
コロナ渦で大学は入学当初の4月~7月まで全てがオンライン授業となり、
誰とも会わずに家で一人で過ごす時間がとても多かったです。
時間も多くあったのもあって、
土日によく家族とビデオチャットをしていました。
私の家はきょうだいに聴覚障害があったこともあって、
コロナ渦以前から、ビデオチャットがけっこう当たり前の選択肢としてあったんですね。
長いときは3~4時間くらい話していました。
この頃は父も母もビデオの近くにいてくれて、
会えなくても顔を見て話せることがとても嬉しかったのを覚えています。
初めての帰省は8月の夏休み中、1週間ほどでした。
この頃は、実家に久しぶりに帰ることができる喜びを純粋に感じていました。
家族も比較的余裕があり、私が帰省している間は私と過ごすために時間を作ってくれました。
それがとても嬉しくて、楽しく過ごすことができたように思います。
正月はコロナ渦で学部の規制が厳しかったこともあり帰省はできず、
次に帰省したのは3月の春休みでした。
このときも1週間ほど帰省し、
家族で写真をとったり、ゲームをしたりして楽しく過ごすことができました。
1年生の頃は、サークル活動や授業など新しいことが多く始まり、
毎日いろいろなことで充実している一方で、大変なこともたくさんありました。
ですがあまり実家に相談することはなく、
家族の前では「楽しくて充実している自分」を演じていたし、
自分もそれを強く信じていたように思います。
2年生 実家に帰ることが辛くなってきた
大学2年生になってからは、
母とはビデオチャットをしていましたが、
父はこの頃から仕事がとても忙しくなって、
ビデオチャットに顔を出さなくなりました。
父と話す機会がなくなり、顔もみれなくなってとても寂しかったのを強く覚えています。
帰省は、1年生のときと同じで夏休みや春休みに行っていました。
ただ、12月に地元でイベントがあったので、
それに参加したいと思って3日間だけ弾丸で帰ったこともありましたね。
それから、2年生になってからは
家族が一人暮らししていた家へ遊びにきてくれることも増えてきていました。
実家に帰ることが辛くなってきたのは、この頃からだったと思います。
この頃私は、実家に帰るとき、
母と○○しよう、父と○○しよう、きょうだいと○○しよう、
という感じでたくさんしたいことを決めて帰っていました。
したいこと、というよりも
「してあげたいこと」「してあげなきゃいけないこと」という強制力があったかもしれません。
実家に帰ったときは、楽しい時間を提供したい、提供しなきゃいけない。
そう思い込んでいました。
それが自分をがんじがらめに縛っていったように思います。
この頃はきょうだいとたくさん遊んだり、
きょうだいの職場まで一緒に歩いて行ったりしていて、
とても楽しかったのですが、
一方で発達障害があり、こどもっぽいきょうだいの相手をすることにもとても疲れていました。
また私たちの家族は
手話、声(日本語)、声+身振り手振り、とコミュニケーション方法が様々で、
聴覚障害のあるきょうだいと親との間で通訳をしたり、
気を遣って話したりすることにもとても疲れていました。
家族としたいことがあるのに、家族と楽しい時間を過ごしたいのに、
家族は協力してくれない。
せっかく私が帰ってきているのに、いつも通りに過ごしている家族を見て、
私自身がないがしろにされているような気分になりました。
思い返せば、実家で暮らしていた頃からこういった状況が日常でした。
忘れていた苦しい環境を思い出し始め、とても辛くなっていました。
実家にいた頃はそれが日常過ぎて何も感じていませんでしたが、
大学2年生になると少しずつ周りに私を大事にしてくれる恋人や先輩がでてきて、
自分を大事にする、大事にされるということを少しずつ学べてきたころだったからこそ、
「苦しい」と感じられたのだと思います。
大学2年生の頃から、帰省の前後は体調を崩したり、
1~2週間動けなくなるくらいボロボロになっていました。
特に春休み、2年生の最後に帰省したときはいろいろなことが重なって、ボロボロになりました。
そのときまで感じないようにしてきたことが一気に押し寄せてきて、
体調を崩してしまったのです。
身体的にも分かりやすく症状が出て、38℃の熱が出て、頭痛がして、体もだるく、普段は朝型なのに、朝全く起きれなくなりました。
今まで自分がとってきた行動が、
自分が望んでやっているのか、やらされているのか、分からなくなってしまいました。
両親やきょうだいには辛い気持ちを言えませんでした。
今更両親を責めたってまた傷つけるだけだし、
両親の辛い顔を見れば自分も大きく傷つく。
きょうだいが理解できるような伝え方をするのは、きっととても労力が必要でした。
家族の前では必死の思いで笑顔ですごして、夜1人で泣いていました。
大学3年生 学校に行けない時期、それでも救いを求めて実家へすがる
大学2年生の最後の帰省をきっかけに、
大学3年生の夏、5月~7月にかけて学校に行けない時期が続きました。
それでも私は、帰省するという選択肢をとっていました。
思い返せば、実家のことで学校に行けなくなるくらい辛い思いをしていたのに、
これだけ実家に帰省していたのは、きっと、すがりたかったのだと思います。
自分の家族が、実家が辛い場所だと認めたくなかった。
家族のことを嫌いになりきれなかったから、救いを求めて実家に帰っていました。
しかも、3年生の時期は
5月、6月、8月、正月、3月、とそれまでにはないスパンで帰省していました。
次の4年生の1年間がとても忙しく、実家に帰ることが難しそうだったので、
今しかない、と思って短期の帰省を何度も行っていました。
考えると異常な行動ですね笑。
2年生のときの帰省でその辛さは十分に分かっていたので、
基本的に帰省は2~3日と決めていました。
1週間以上帰るときは用心して、その前後1週間は十分に休めるように予定を組んでいました。
また友達と会う予定を立て、なるべく実家で過ごさないようにしていました。
その甲斐あってか、この頃の家族写真や友達との写真を見るとわりと楽しそうにしています。
家族間のコミュニケーションについては、
3年生になるともう割り切れていたので、あまり気にしないようにしていました。
幸い、きょうだいも自主性がでてきて、
分からないことは分からないと言えるようになり、
気にせずに過ごす、割り切ることも少しずつできるようになっていました。
ただ、帰省した後の異常な疲れ、動けない感じはやはり変わりませんでした。
まあこの頃にはそれも想定内で、家でできることを楽しめるようになってきていたので、
少しずつ困難への対応力が身についてきていたのだと思います。
この頃、まだ整理がついていなかったのは、父との関係でした。
この頃は父が特に仕事が忙しく、
イライラしてとても怖い雰囲気を発していたと思います。
父と母は仲が悪く、お互いが一緒にいることはほとんどないので、
母がいないときを狙って、父は私と話してくれるような状況でした。
私と話すときは父は比較的穏やかで優しかったので、
父のことをどう思って良いか分からず、
その二面性に振り回されていました。
また父と母、両方に気を遣うことにも、とても疲れていました。
大学4年生 今にも倒れそうな辛さ、生きづらさが露呈した瞬間
大学4年生になると実習や卒業研究で忙しかったので、
帰省したのは9月と、正月の2回でした。
9月の帰省は比較的楽にすごせましたが、
正月の帰省は辛いことが多く、私の人生の中でも大きな転機になりました。
4年生になっても実家で過ごすことは相変わらず辛いことが多く、
実家で過ごすだけで身体がとても重く、だるく、今にも倒れそうな思いをしていました。
ですが、今までの帰省で学習し、
帰省する前にいろいろなところに出かけるための予定を組んでいたので、
温泉や美術館など好きなところへ出かけることもできていました。
それでも、事前に立てていた予定では足りないくらい、
実家で過ごすのが辛い場面が多く、
滞在中は何度も家を出て本屋やカフェで過ごしました。
何度も途中で自分の家へ帰ろうかと思いました。
そんなボロボロの状態で起こったのが、
2024年、1月1日の能登半島地震でした。
地震が起こったのは1月1日の夕方。
その日も私は実家にいることができなくなり、
お昼前から外に出ていました。
本当に自分の家に帰ろうか何度も迷った末、
なんとか気持ちを切り替えて家に帰った後に、
その地震が起こったのです。
家が大きく揺れて、
少し離れたところにいた私は
慌ててきょうだいと母のもとに戻り、頭を伏せさせて守りました。
きょうだいが少し震えていたので、必死に背中をさすってあげたのを覚えています。
揺れが収まった後は、急いでニュースをつけました。
そのあとも繰り返し揺れが起こり、
津波の情報などが流れていて、全く気が休まらなかったのを覚えています。
その中でも、私が一番ショックだったのは、
父と母の行動でした。
私たちきょうだいが揺れが来るたびに本当に怖い思いをしていたのにも関わらず、
私たちに声をかけることもなく、
これからのことを相談することもなく、
母は片づけ、父は仕事をし始めていたのです。
今思えば2人とも自分のことで必死で、
周りの状況や私たちのことはまったく見えていなかったのだと思います。
そのときは私が母や父に声かけをして、
寝床の準備や避難の準備を整えました。
家族の中でも一番おびえていたきょうだいを気遣い、
守ろうとしているのは私一人でした。
この光景が、私の中に大きく焼き付いています。
普段はっきりとは見えなかったものの、
ずっと感じていた生きづらさが露呈した瞬間でした。
父や母はずっと自分のことで必死で、
私たちのことをちゃんと見る余裕なんてなかったのだ、
私たちは両親にちゃんと見てもらえなかったのだ、と思いました。
これがきっかけで、私は実家と距離を置こう、と心に決めました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は私の学生時代の帰省の思い出、考え方の変化をご紹介しました。
この記事が少しでも読んでくださった方の役に立てばとても嬉しいです。
この記事を読んでくださった方のことを応援しています。
コメント