こんにちは。はいしーです。
プロフィール
はいしー。2000年生まれの24才。きょうだいが難病(発達障害・聴覚障害など)。
親との関係に悩み、アダルトチルドレンの面もあり。
大学生から実家を出て一人暮らし。
たくさん悩んできた自分を受け入れて、
人生を楽しむ方法を模索中!
今回は、きょうだい児・アダルトチルドレンとして育った私の、
浪人生~大学2年生までの記憶をご紹介します。
Contents
浪人生のとき
私は高校を卒業した後、大学に入る前に一年間浪人していました。
そのときにはきょうだいは既に学校を卒業して就職していたので、
母、父、私の3人ですごす時間が格段に増えたのです。
母と家でゆっくり過ごし、テレビを見たり、家事をしたり、話したり。
父も忙しい中でも時間を作って
カフェに一緒に行ったり、お昼ご飯を一緒に食べたりしてくれていました。
3人でご飯を食べる時間も増えました。
私の家庭では、小学生の頃から父は家庭内別居のような状態で、
食事を一緒にとることはありませんでした。
そんな家庭でずっと過ごしてきた中で、
3人で、父とご飯を食べられた時間はとても貴重で、幸せなものでした。
同年代と比較されることもなく、
きょうだいと親の愛をとりあうこともなく、
こんなに穏やかに過ごしたのは人生で初めてのことでした。
そのような時間を過ごす中で、
自分が愛されているんだ、愛されていたんだと再確認することができました。
小中高でできた様々なトラウマもありましたし、
きょうだいと過ごす時間が辛いこともまだありましたが、
家族のことを大好きな気持ちがあったので、とても幸せな時間でした。
気持ちの余裕ができ、
今までまったく思いつかなかった行きたい場所、したいことが次々と出てきて、
とてもわくわくする時間でした。
大学1年:SODAやきょうだい児という言葉を知った。
大学生になると実家を出ることができました。
そのおかけで、それまででは信じられないくらい心の余裕ができました。
様々なことを学び、様々なことにできるようになりました。
その中で、きょうだい会の存在を知りました。
そこで使われていたのが「きょうだい」や「きょうだい児」
「SODA(Sibling Of Deaf Adults/Children)」という言葉です。
私はこの言葉にとても救われました。
それまでは、自分が置かれてきた状況を説明するときに
「きょうだいが聴覚障害や発達障害を持っていて…」というふうな説明をしていました。
それは結局自分のきょうだいや家族のことを説明する言葉でしかなく、
自分自身を直接指し示す言葉がなかったのです。
でも、初めて自分自身を説明できる言葉ができた。
自分と似た境遇の人がいることを知り、
その人たちの言葉に強く共感したのです。
自分だけではなかった。
自分が感じてきた苦しさ、つらさが、自分に起因するものではなかった。
そのことが私の人生にとってとても大きな出来事でした。
初めて自分の苦しさ、辛さを認めてもらえた気がしました。
大学2年:どうして障害のことを教えてくれなかったのか、という怒り
「きょうだい児」と言う言葉を知っていく中で、
自分でも聴覚障害や発達障害について調べる機会が増え、
両親と障害について話す機会も増えていきました。
その過程で、きょうだいの障害について知らなかった情報を知らされることもありました。
発達障害のことを知ったのも大学生になってからでした。
私はそのときまでずっと、聴覚障害のみだと思っていたので、本当に衝撃的でした。
でも、その瞬間に「やっぱりそうだったのか」とも思ったんです。
今までの全部の出来事がつながっていく気がしました。
私が感じていた「違和感」はやっぱり正しかったんだ。
それならば、なぜ、もっと早く教えてくれなかったのか。
私はその違和感のせいでずっと苦しんでいました。
子どもっぽく、自分より年上なのにかんしゃくを起こして、怒ってわめいているきょうだい。
勉強に集中したいのに、楽しさを抑えきれずはしゃいで、飛び回っているきょうだい。
こんなきょうだいいらない。嫌い。
でも、きょうだいは何も悪いことはしてない。
我慢できずにいらいらしてしまう自分が悪いんだ。
ずっとそう思っていて、自分のことが本当に嫌いでした。
もっと早く教えてくれていれば、こんなに苦しまずに済んだのに。
今でも、新しく知る情報がたくさんあります。
「頭を打つと目が見えなくなる可能性があったんだよ。
小さいとき、ヘルメットもしてたし、激しい運動はしなかったでしょ。あと、弱視だし。」
と母にさらっと言われたときも、私はすごく衝撃的でした。
目が見えなくなる可能性があるなんて、そんな危険な状態だったなんて知らなかった。
私はいつも、「なんとなく」感じていただけでした。
「なんとなくこどもっぽいな」「なんとなく人と違うな」
でも、それはきょうだいの性格で、障害や病気ではないと思っていました。
(きょうだいの障害は聴覚障害だけ、ただきこえないだけでしょって思っていた。)
だから、きょうだいを責めて、そういう自分が嫌で、自分が大嫌いで、苦しかった。
もし、もっと早く教えてくれていたら、私はこんなに苦しまずにすんだのに。
ちゃんと、全部、説明してほしかったと強く思います。
親ときょうだい児では立ち位置が違う。
親と障害について話す中で、
私と親はまったく感じ方が違う、ということもだんだん分かってきました。
私が小さい頃からずっと感じ、苦しんできた
手話や手話を話す人への偏見、差別は、母は感じていなかったのです。
正確には、感じていなかったというよりも、
子を守るのに必死すぎて何も見えていなかった、
見ないようにしていたという方が正しいかもしれません。
それから、父と母でも意見が大きく違ったのです。
経口摂取を進めるかどうか
(きょうだいは小さい頃は経管栄養、気管切開などをしていました)、
手話を学ぶかどうか、ろう学校に通うかどうか、どこのろう学校に通うのか、
どこに進学・就職するのか、
代表的な話題を挙げましたが、
他にも、両親はたくさんの場面で衝突してきたようでした。
親のカウンセリングをしていた ー親との共依存ー
私は大学生になり、実家で過ごす機会が減ったことで、
私は完璧ないい子を、両親の前で演じられるようになっていました。
どんなに辛いことがあっても、家族の前ではいつも笑顔で、楽しそうにしていました。
それもあり、両親から見た私は
「安定していて、もう助けのいらない大人」に見えたのかもしれません。
この子にならもう話してもいいか、自分の愚痴をきいてもらおう、とでも思ったのでしょうか。
大学生になって実家を出てしばらくした頃から、
過去の壮絶な出来事をきかされること
父、母がお互いの悪口や愚痴を私に話すことが格段に増え、
それが新たなストレスになりました。
それでも私は、父と母に仲良くいてほしいという思いが強かったので、
2人の話を一生懸命聞いて、共感して、それぞれの気持ちを言葉にしたりして、
まるで私が両親それぞれのカウンセリングをしているようなものでした。
父と母、それぞれの言い分をオブラートに包んだり、
気分を害するような内容は省略したり、
一生懸命言葉選びをしてそれぞれに伝えたりもしていました。
それでも2人の関係性は変わらず、
自分の無力さを強く感じ、疲れ切っていました。
できれば誰かに代わってほしい。切実にそう思っていました。
両親は、カウンセリングを受けるべきなのではないか。そう思った時期もありました。
けれど、父は人に言われて行動を変えるような人ではありませんでした。
母も、とても怖がりで、新しい行動に出るのにものすごくためらう人でした。
もしカウンセリングに行ったとしても、発達障害や聴覚障害、今の私たち家族を理解してくれる人がいるのか。
カウンセリングは辛さを伴うことを、私は知っています。
抑えていた、感じないようにしていた感情がおしよせてきます。
その感情を理解してもらうためには私たちが置かれていた状況を説明しなくてはならない。
また、そこで心ない言葉をかけられるかもしれない。
それを説明させて、思い出させることが家族にとって果たしてよいことなのか。
今、やるべきことなのか。
家族を安易に精神科やカウンセラーに引き渡すことはできない。
大学生のときの私はそう思っていました。
家族を守ろうと、必死だったのです。
守ることで、自分の存在意義を感じてもいたのだと思います。
お互いが共依存の関係でなりたっていたのでしょう。
今でも感じる罪悪感
大学生になってからは、
きょうだいと過ごす時間が格段に減ったので、
むしろきょうだいのことをかわいいと思うようになりました。
でも、やっぱりいらいらしてしまうときはあります。
でも、いらいらしてきょうだいに怒ってしまうと、
きょうだいが悲しそうな顔をする。
そんなきょうだいを怒ってしまう自分が嫌になる。
そういうところは昔と変わってないなぁと思います。
いつも矛盾する思いと戦っています。
また、聴覚障害のあるきょうだいがいるのに
声だけで会話をすることにも罪悪感があります。
でも両親は声で話しかけてくることが多く、
私と両親が声だけで話しているときょうだいが不思議そうな顔をしたり、
寂しそうな顔をするので、たまらず私が通訳したり。
通訳するのもしんどいので、たまらずその場から逃げ出すこともあります。
こんなことばかりなので、実家に帰ってもゆっくり休むことなんてできずにいます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
きょうだい児・アダルトチルドレンとして育った私の、
浪人生~大学2年生までの記憶をご紹介しました。
この記録が少しでも参考になれば幸いです。
応援しています。
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